当山二十八世 鐵心亮牛 和尚 記述
昭和五十八年より 三十三世 恭心亮行 和尚 編集追記
平成 十四年より 副住 大心亮秀 編集追記
住職名 | 住山年数 | 住山歴 | その他履歴 | 備考 |
当山勧請開山 乾坤三世 芝崗宗田(シコウ ソウデン) 大和尚 |
濃州芝田の郷に出生 長享 元年(1487) 〜明應 9年(1500) 乾坤院住 明應 9年(1500)3月3日 示寂 |
逆翁宗順(ギャクオウソウジュン)大和尚の弟子 14年間乾坤院住 |
傳衣として一肩の袈裟が傳えらている | |
二 世 太素省淳(タイソショウジュン) 大和尚 |
13年 | 当地梅山に出生 文明5年(1974)より梅山常林寺に居住。 文明17年(1486) 龍巣院 創建入院 延徳 元年(1489) 開闢式 明應 6年(1497)8月23日 示寂 51歳 |
文明18年(1487) 6月20日 芝崗宗田大和尚より傳法 |
当山開創誌に示す 当境内地は龍神池で龍神が一夜で池の水を干上げ寄進したといわれる。 その後土木3年にて完成 |
三 世 機外了禅(キガイ リョウゼン) 大和尚 |
30年 | 明應 6年(1497)入院 大永 6年(1526)9月10日 示寂 72歳 |
知多緒川城主水野下野守の三男として出生と言われる。 | |
四 世 實田以耘(ジツデン イコウ) 大和尚 |
15年 | 江州にて出生 大永 6年(1526) 入院 天文 9年(1539)12月18日 示寂 |
西ヶ崎 永昌院 西同笠 泊船庵の二ヶ寺を開山 |
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五 世 了山雲岱(リョウザン ウンタイ) 大和尚 |
7年 | 天文 9年(1540) 入院 天文15年(1546)12月19日 示寂 |
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六 世 寶谷雲悦(ホウコク ウンエツ) 大和尚 |
26年 | 天文15年(1546) 入院 元亀 2年(1571) 退院 天正19年(1591)1月23日 示寂 80歳 |
退院後 宗有寺を(現袋井市岡崎)建立し同寺に隠居 | 三浦宗有公菩提供養のため宗有寺を大須賀康高の発願にて建立し住す |
七 世 一傳岱純(イツデン タイジュン) 大和尚 |
5年 | 元亀 2年(1571) 入院 天正 3年(1574) 退院 寛永 2年(1625) 8月15日 示寂 於 林泉寺 106歳 |
天正 2年(1573) 5月 戦にて当山焼失弟子昌嫩に席を譲り紀州へ同3年 林泉寺(現和歌山市)に住す |
紀州徳川家、和歌山に国を定め一寺を建立し、林泉寺と名付け菩提寺とする。 天下に名僧を求め、遠州に一傳を得、開祖とし、さらに法泉寺を建立。 和歌山市には林泉寺と法泉寺の二ヶ寺の末寺があり。林泉寺は勢州に6ヶ寺の末寺を持つ |
八 世 竹翁昌嫩(チクオウ ショウトン) 大和尚 |
7年 | 天正 3年(1575) 入院 天正 9年(1581) 退院 天正12年(1584)9月5日 示寂 |
天正 7年(1579) 越州龍澤寺住 |
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九 世 玄室龍頓(ゲンシツ リュウトン) 大和尚 |
13年 | 御前崎新荘に出生 天正 9年(1581) 入院 文禄 2年(1593) 退院 寛永 3年(1626)6月23日 示寂 於 弧雲寺84歳 |
退院後贈船寺へ住す |
大須賀康高公父子が開基となり天正10年(1582)頃本堂建立すると思われる。 重興号あり、大須賀康高公、十一石寄進す。寛永8年山火事にて焼失。 浅羽地区の多くの末寺がこの代の開祖となる。 |
十 世 能天春藝(ノウテン シュンケイ) 大和尚 |
13年 | 文禄 2年(1593) 入院 慶長10年(1605) 退院 寛永 9年(1632)2月14日 示寂 於 東泉寺 80歳 |
退院後 釣月院住 | 釣月院創立後、東泉寺に28年間住し、示寂 |
十一世 金谷珊鐵(キンコク サクテツ) 大和尚 |
24年 | 慶長10年(1605) 入院 寛永 5年(1628)12月13日 示寂 |
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十二世 北簡元寿(ホッカン ゲンジュ) 大和尚 |
29年 | 寛永 5年(1628) 入院 明暦 2年(1656)11月22日 示寂 95歳 |
寛永 8年(1631) 5月 5日 諸堂、山火事にて焼失、復旧 |
武田信玄の幕下と云われ、福厳寺、花学院の開山。 總門造立、西ヶ崎(現浅羽町西ヶ崎)安間五郎作、大工は浜松、和田、長四郎 |
十三世 齢外サク延(レイガイ サクエン) 大和尚 |
承應 4年(1655) 2月28日 示寂 於福厳寺 |
元寿和尚の弟子、その時の直歳職(山内の整備や建物の管理)。 元寿和尚が乾坤院輪住で留守中に山火事の為諸堂焼失。 その後の諸堂再建の功により世代となる。 福厳寺、花学院を開創し二世となる。 |
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十四世 青山宗秀(セイザン ソウシュウ) 大和尚 |
17年 | 諸井村にて 出生 寛文 9年(1669) 入院 貞享 2年(1685)6月 1日 示寂 |
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十五世 林昌恵禅(リンショウ エゼン) 大和尚 |
23年 | 三州北設楽郡振草出生 貞享 2年(1685)12月 下旬 入院 西明寺より任命 宝永 3年(1706) 退院 正徳 元年(1710) 1月 1日 示寂 80歳 |
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十六世 見道榮聞(ケンドウ エイモン) 大和尚 |
8年 | 江口村にて出生 宝永 3年(1706)10月 入院 正徳 3年(1713) 5月16日 示寂 49歳 |
宝永 7年(1710) 庫院建立 正徳 元年(1711)10月 厩(うまや) 建立(現存) |
宝永 4年 1月 大地震あり |
十七世 気雲林香(キウン リンコウ) 大和尚 |
6年 | 浜松荘島野郷にて出生 正徳 3年(1713) 5月 入院 享保 3年(1718)10月22日 示寂 39歳 |
正徳 5年(1715) 方丈造立(昭和二十九年改築) |
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十八世 骨山禅随(コッサン ゼンズイ) 大和尚 |
2年 | 平野村にて出生 享保 3年(1718)11月 下旬 入院 享保 4年(1709)11月15日 示寂 38歳 |
正徳 5年(1715) 9月 増船寺八世として入寺 |
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十九世 戒臨保民(カイリン ホミン) 大和尚 |
21年 | 金谷島にて出生 享保 4年(1719)12月 4日 入院 元文 4年(1739) 5月10日 示寂 52歳 |
享保19年(1734) 大洪水あり 袋井宿床上三尺浸水す。 | |
二十世 魯極石牛(ロゴク セキギュウ) 大和尚 |
9年 | 元文 4年(1739) 6月 入院 延享 4年(1747) 退院 宝暦 5年(1755) 2月17日 示寂 |
可睡斎開祖大年正椿大和尚の法系にて豊岡村最廣寺六世延命寺より当山に晋住す。 是より太素禅師の法系より大年禅師の法系となる。 |
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二十一世 律厳戒令(リツゴン カイレイ) 大和尚 |
14年 |
平民村 折右衛門出生 延享 4年(1747) 4月 3日 入院 宝暦10年(1760) 退院 寛政 元年(1789) 6月24日 示寂 82歳 |
大東司一宇 四間三間 十二坪造立 (昭和30年(1955)倒壊) |
宝暦7年(1757)10月 東海道大洪水にて大凶作、木の芽草根を食らうとある |
二十二世 重興 巨菴石純(コアン セキジュン) 大和尚 |
31年 | 平民村 折右衛門出生 宝暦10年(1760)11月 2日 入院 寛政 2年(1790)冬 退休 寛政 4年(1792)12月29日 示寂 62歳 |
宝暦14年(1764) 宝蔵造立 (棟札に13年とあり、昭和20年(1955)遺滅) 明和 6年(1769)春 衆寮再建 明和 7年(1770) 山門瓦葺きならびに東西土塀瓦に葺き替え。 寛政 元年(1789)4月24日 本堂再建 |
明和四年(1767) 大雨洪水 天明五年(1785) 大洪水 明和七年(1770)四月 干魃 天明六年(1786) 大凶慌 〃 年(1770)七月 大雨高波 天明の大飢饉 |
二十三世 道耘巨範(ドウウン コハン) 大和尚 |
14年 |
大嶋村徳左衛門出生 寛政 2年(1790)11月 4日 入院 享和 3年(1803)12月27日 示寂 52歳 |
寛政11年(1799) 奥宝蔵造立 (昭和二十五年取り壊し) 〃 本堂欄間彫り物造 (諏訪和四郎作) 〃 本尊再色 |
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二十四世 大耘道民(タイウン ドウミン) 大和尚 |
16年 | 大野村にて出生 文化 元年(1804) 1月29日 入院 文政 2年(1819)12月26日 示寂 42歳 |
文化13年(1816) 6月13日 大鐘 鋳直し 寛永8年(1631)の大火により焼けたまま在りし物を鋳直す 昭和17年(1942)第二次世界大戦の際供出、現存せず。 |
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二十五世 鐵相見牛(テッソウ ケンギュウ) 大和尚 |
9年 | 大野村にて出生 文政 3年(1820) 3月22日 入院 文政11年(1828) 6月12日 示寂 46歳 |
文政 5年(1822) 穀蔵造立 (現存) |
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二十六世 實参真峰(ジッサン シンポウ) 大和尚 |
10年 | 戸場野に出生 文政11年(1828) 9月20日 入院 天保 8年(1837) 8月 3日 示寂 53歳 |
天保 7年(1838) 8月 大風潮風にて全国大飢饉 大潮にて寄木村より当山へ死亡者漂着 米の価格が三倍にもなった |
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二十七世 佛山大梁(ブッサン タイリョウ) 大和尚 |
18年 |
三州碧海郡西別所村に出生 天保 8年(1837)11月 入院 28歳 嘉永 7年(1854) 8月 退休 明治 5年(1872) 1月 9日 示寂 75歳 |
見牛和尚の弟子 三州 龍洞院 新貝 蓮城寺住職 退休後 宗有寺へ |
嘉永3年(1850) 大地震あり |
二十八世 鐵心亮牛(テッシン リョウギュウ) 大和尚 |
12年 |
山名郡南嶋村に出生 嘉永 7年(1854) 8月 上旬 入院 慶応 元年(1865) 8月15日 退休 明治11年(1878)10月12日 示寂 70歳 |
退休後 当山内へ隠居 | 嘉永 7年(1854)11月 4日朝 大地震あり、諸堂破損、修理す |
二十九世 大典道雄(ダイテン ドウユウ) 大和尚 |
13年 | 慶応 元年(1865) 8月16日 入院 明治10年(1874)10月 退休 明治16年(1883) 3月14日 示寂 |
壮士の塔を建立 退休後大福寺へ |
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三十世 大心亮孝(ダイシン リョウコウ) 大和尚 |
17年 | 天保2年(1831)掛川町に出生 明治10年(1877)10月28日 入院 金剛寺より晋住 明治27年(1894) 6月25日 示寂 63歳 |
文久 2年(1862)4月26日 金剛寺へ住職 明治16年(1883)本堂屋根換え、 衆寮修理、 大庫院屋根換え |
碩学の人であり、見付町長を務めたと云われる |
三十一世 法幢開闢無着 大宏亮周(ダイコウ リョウシュウ) 大和尚 |
34年 | 豊田郡長野村小島にて出生 明治27年(1894) 8月25日 入院 33歳 大正15年(1926 )春 大洞院より 贈 中興号 昭和 3年(1928) 2月16日 示寂 67歳 |
当山末寺見徳寺、養生寺、松源庵、光照院各寺へ住職 大正14年(1925) 山門瓦葺き替え |
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三十二世 重興 即心亮一(ソクシン リョウイツ) 大和尚 |
36年 | 明治37(1904)年 幸浦村西同笠に出生 昭和 3年(1928) 4月11日 入院 28歳 昭和39年(1964) 7月31日 示寂 64歳 |
昭和 5年(1930) 観音像配置と観音堂建立 明治上地の時に現位置に配置。 昭和 7年(1932)1月 庫院、書院、開山堂、衆寮前倉庫修理 昭和27年(1952)8月 本堂修理 昭和29年(1954)12月 書院改築 昭和35年(1960) 庫院修築 昭和37年(1962) 厩屋根葺き替え 昭和37年(1962)1月 位牌堂改築 昭和39年(1964) 本堂西側東司修理 |
昭和19年(1944) 12月 7日午後1時40分 東南海地震発生、 末寺十一ヶ寺倒壊、他も要修理。 当山被害 山門柱折損、禅堂傾斜、 檀中家屋倒壊100戸以上、 死者大人3名、子供1名 |
三十三世 恭心亮行(キョウシン リョウコウ) 大和尚 |
46年 | 昭和2年 当山にて出生 昭和39年(1964) 8月12日 入院 昭和39年(1964)11月29日 晋山式 平成22年(2011)11月22日 退董 平成25年(2013)11月27日 示寂 86歳 |
昭和42年(1967) 宝蔵再建 昭和43年(1968) 山門修復 昭和46年(1971) 釈迦堂、地蔵堂修理 昭和49年(1974) 一番観音堂修理 昭和50年(1975) 表玄関改築 昭和52年(1977) 禅堂修理 昭和57年(1982) 稲荷堂兼観音、諸仏堂建立 昭和57年(1982) 遠州三十三番観音霊場開設 第十三番札所 昭和60年(1985) 庫院東側東司建立 昭和63年(1988) 本堂屋根替え工事 昭和63年(1988) 本堂、位牌堂、開山堂修理 平成 元年10月 和光閣建立 平成 2年(1990) 参道舗装工事、 庫院厩等修理改修 平成 5年(1993) 稲荷奥の院拝殿建立 平成 6年(1994) 小庫院建立 平成11年(1999) 南側東司建立 平成11年(1999) 山門前駐車場完成 |
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三十四世 大心亮秀(ダイシン リョウシュウ) |
昭和39年(1964)当山にて出生 平成22年(2011)11月22日 入寺 |