当山の開基 |
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当山の開基、建立は1485年(室町時代 文明17年) 5百余年、33代の歴史と、様々な伝説を持っている。 |
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建立当時の伝説 |
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現在の土地(当時の笠原荘 木根村)は伝明庵(でんみょうあん)、豊田(ほうでん)尼僧が私財を投じもとめた場所である、その当時、そこには龍神池があって寺の建立ができずにいた。 ある日その池の主の龍神が、太素省淳(たいそしょうじゅん)禅師(現、浅羽町 梅山の出身、当山2代)の枕元に立った。 「池の水を干上げて差し上げます、そこに寺を建ててください。私がそこを守護しましょう。」 翌日禅師が池に行ってみると池の水は干上がっていた。 そこへ白髪の老人が現れて禅師を導いたという(この老人は長岡稲荷(ながおかいなり)であったといわれ、今も稲荷堂に祀られている)。 その後3年間の工事を経、伽藍が完成。 省淳禅師の師、芝崗宗田(しこうそうでん)禅師(現、愛知県 東知多郡 東浦町、宇宙山(うちゅうざん 乾坤院(けんこんいん) 住)を勧請開山(かんじょうかいさん・寺を開き自らの師匠を初代として迎えること。)に迎え、延徳元年(1489)開闢式(かいびゃくしき・ご本尊を開眼し、本道を落成する)を行った。 |
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山号と寺号 | |
その後山号を寺門が永く繁栄することを願って『長嶽(ちょうがくさん)』。 寺号を多くの修行僧が集まることを願い『龍巣(りゅうそう)』{龍象衆(修行僧のこと)の巣となれの意}。 「長嶽山(ちょうがくさん) 龍巣院(りゅうそういん)」と名付けられた(『院』は山に囲まれていることを意味する)。 |
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2度の大火災と復興 | |
1575年(天正3年)武田勝頼の『高天神攻め』の際、天岳寺(てんがくじ・現浅羽町岡山)、岩松寺(がんしょうじ・現浅羽町篠ケ谷)とともに当時の伽藍は焼失。 時の住職7代岱純(たいじゅん)大和尚は、その責任をとり隠居、その後9代龍頓(りゅうとん)大和尚が大須賀康高の援助で本堂を再建した。 その本堂も1630年(寛永8年)時の12代元寿(げんじゅ)大和尚が、大本山総持寺の輪番住職として留守中に山火事に見舞われ他の伽藍と共に焼失。 留守居役のサク延和尚(さくえん・後の13代住職)がわずか1年で復興を成し遂げた。 現在の本堂は、宝永の大地震(1705年<宝永2年>)などで傷みが激しくなったため、1789年(寛政元年)22代石純(せきじゅん)和尚の時解体、再建したものである。 再建以後、安政、昭和の2度の大地震にも倒壊することなく、1988年(昭和63年)屋根瓦を銅板に葺き替え、現在に至っている。 |
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山門と『胴切りの龍』の伝説 | |
現在の山門は1630年(寛永8年)の山火事の後、西ヶ崎(現浅羽町西ヶ崎)の安間五郎作によって寄付され、浜松(現浜松市)の大工和田の長四郎の手になり、その後1968年(昭和43年)解体修理されている。 そこには左甚五郎が彫った龍虎の彫刻が飾られている。 その龍は、毎夜そこを抜け出して田畑を荒らし、村人を悩ませたため時の住職(12代元寿和尚と伝えられている)がその法力をもって、説き糾そうとしたが聞かず。 和尚によって刀で胴を二つに斬られて以後、『胴切りの龍』と呼ばれ、山門にあって龍虎ともに火難盗難から寺を守っているといわれる。 |
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山内の石碑史跡等 | |
『壮士塔』 | |
明治維新で官軍と戦って戦死した者を供養する石碑。 大須賀西尾候の家臣によって故郷に葬ろうと運ばれ、明治政府の咎めを恐れた大須賀町によって埋葬を拒否された戦死者を、28代亮牛(りょうぎゅう)和尚が引き受け建てさせた。 |
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『三十三ヶ所の観音像』 | |
境内地山内に、近隣の末寺檀信徒によってまつられている。 西国三十三観音の霊場にならい、当山の所有地にたてられたものだと思われる。 その後廃仏毀釈や、農地解放などにより当山の所有地が縮小され、昭和5年に現在の位置に移設されたものである。 その当時より、末寺、あるいは当山の檀信徒、信者によって管理され、現在に至っている。 秋の彼岸には今でも檀家、信者に関わらず、それぞれの地区、自治会によって小祭典が行われている。 |